幼少の頃〜自然の中で
神奈川で産まれて3歳の時,栃木県に引っ越してきました。
一人っ子でしたが父が少年院勤務だったので職員官舎に住んでいて、上級生から下級生まで一緒に野原を駆け回るようにして育ちました。
花を摘んだり、トンボやカブト虫、蛍もセミも捕まえました。
虫はタダで捕まえるものだと思っていたので、東京のデパートでカブト虫を売っているニュースを見て驚きました。
ピアノを習いに
ピアノは気が付いたら習わされていた感じです。(多分4歳ぐらいから)
町の学校の先生を退職されたおばあちゃん先生にバイエルを習いました。
ピアノ教室からの帰り道、面白くないのでやめたいと母に言ったら、ものすごい怖い顔で睨まれたので、これは言ってはいけない言葉なんだなと思った記憶があります。
そのまま中学生になるまで二度とピアノを辞めるという言葉は口にしませんでした。
幼稚園で始めたバイエルは、上巻が終わって下巻に入るとメロディーも音楽的になり楽しくなってきました。
この頃学校のチャイムや車の走る音など色々な音が、ドレミファソラシドで聞こえてきてとても気持ち悪いと思った時がありました。
何でこんな風に聞こえるんだろうと嫌でした。
自然の音は自然に聞きたいと思ってなるべく音名で聞かないようにしていましたら、そのうち普通に聞こえるようになりました。
これは絶対音感がつく兆候なのですが、何も知らなかったので逃してしまいました。
音大受験のソルフェージュで絶対音感が無い事で後で負い目を感じる事になりました。
小学生〜ピアノ伴奏
小学1年生の時から音楽の時間は先生の代わりにピアノ伴奏をしていました。
来週はこの曲やるから練習してきてと先生に教師用の楽譜を渡されました。
新しい曲の練習をするのがとても楽しみでした。
学校の音楽の授業は、移動ドで行われています。
音名で歌った後に階名で歌うと皆出来ないと言っていたのが不思議でした。
それから10年後に中学の音楽教師をした時に、階名で歌った後にリコーダーの練習をさせて、ではみんなで一緒に演奏しましょうと言って一斉に音を出したら、平行4度の不気味な音楽が流れ出して驚きました。
楽器は固定ドでないと演奏出来ないのに、楽譜を読めない男の子達はどうやら階名をひそかに教科書にメモしてそれをもとにしてリコーダーを練習してしまったみたいです。
そんな事でもなければ気がつくことができなかった新米先生でしたが、その瞬間、小学生の時にみんなが困っていたのはこれだったのかとわかりました。
高学年になると校歌の伴奏や卒業式の伴奏など頼まれて嬉しかったのを覚えています。
作曲の授業でテーマに続けてメロディーを作るという課題では、先生の模範解答と全く同じでした。
理論的な事は全く知りませんでしたが、自分としてはこのテーマからは他のメロディーは思いつかないと思いました。
ピアノを習っていたからこそ出来た事でした。
ピアノ教室〜ショパンの虜
小学3年生の時新卒の若いピアノの先生に母に行くように言われて教室を変わりました。
バイエルの途中からもう一度やり直ししました。
直ぐにブルグミュラーに入り、素敵なメロディーなのでとても気に入って、1年かからずに終了しました。
次にソナチネに入りました。
その後長いチェルニー・ソナチネ時代が続きました。
4年生の時ピアノ教室のお楽しみ会で、6年生のお姉さんがショパンのワルツを弾いたのを聴いて、すっかりショパンの虜になりました。
レッスンの待ち時間に先生のお宅の本棚からショパンの楽譜を抜き出しては眺めていました。
先生にお願いしてコピーしてもらった楽譜を綺麗に製本して、たどたどしいショパンを家で練習していました。
画用紙に貼り付けてホッチキスで止めただけの楽譜でしたが、私にとっては宝物でした。
中学校〜私の曲が?
中1の合唱コンクールの時、私が作った学級歌をコンクールの曲と一緒に歌いました。
変な曲と思っていたので少し恥ずかしかったです。
中学3年間は毎年クラスの合唱コンクールの伴奏しました。
中1の途中でピアノ教室へ行くのをやめました。
自分の好きな曲だけを弾きたいと思ったからです。
教室を辞めてショパンの楽譜を買ってきてワルツやマズルカを喜んで弾いていました。
やめて1年くらいしてもっと上手になりたいと思ってもう一度ピアノを習いたいと母に言ったら、うちにはそんなお金はないと言われました。
県立高校に入学できたら習っても良いと言われて、勉強はとても頑張りました。
学年で5位くらいでした。
勉強は中学の時が一番やっていたと思います。
学生〜憧れの曲をいよいよ
県立高校に入学して、またピアノ教室に通い出しました。
今度は地元の短大のピアノ科の先生の所に行きました。
3年のブランクもあり、またまたやり直しからのスタートでした。
チェルニー30番とソナチネからでしたがすぐにソナタ。
バッハの勉強も始まって楽しかったです。
自分から習いたいと言って通いだしたので、楽しかったし、一生懸命に練習しました。
ソナタにはいり、それまで人間が弾く曲とは思えないと感じていた幻想即興曲も、そんなに難しくないとわかり、レッスンではなく、休みの日に遊びで弾いていました。
高校では合唱部に入り全国大会まで行きました。
練習はとてもきつくて嫌でしたが、そのおかげで歌が上手になりました。
今では顧問の先生に感謝です。
本当はピアノ科に入りたかったのですが3年間のブランクがあるので、きっと駄目だろうと思ってピアノの先生に言えませんでした。
地元の宇都宮短期大学音楽科の教育音楽ピアノ専攻に入学しました。
社会〜勉強三昧
学生時代は、カワイの音楽教室でアルバイトでピアノを教えていましたが、そのまま就職せずに、短大を卒業してすぐに小規模校と大規模校と対照的な二つの中学で音楽の教師をしました。
その後自宅でピアノ教室を始めました。
自分の経験から生徒には最初から最高の教育をさせてあげたいと思い、色々なセミナーや教材研究会に入りました。
東音企画の教材研究会では第1回のバスティンツアーに参加してカリフォルニアまで行きました。
鈴木メゾットの才能教育や一音会の絶対音感インストラクターの勉強もしました。
発表会は短大の同級生と一緒にボランティア的な発表会をしていました。
結婚
25歳の時お見合い結婚をしました。
7年くらい子供がいなかったので独身の時と同じようにピアノを教えていました。
生徒をコンクールに出したり自分もずっとピアノを習い続けていました。
28歳の時父が癌で亡くなりました発表会の1ヶ月前でした。
1週間お休みしましたが、無事に発表会をすることができました。
発表会のためにレッスンしなければという思いがあったおかげで、悲しみを乗り越えられた気がします。
実家でピアノ教室をしていたので一人になった母のためにもピアノ教室を続けなければと思っていました。
子育て、長男
31歳の時長男が生まれました。
4000 gの巨大児 でした。
結婚前はSサイズでもゆるいくらいだった体系がМサイズになりました。
孫が生きがいのような母に子育てを手伝ってもらいながらレッスンを続けました。
そのおかげで、私は自分のレッスンに通うことも続けていましたしセミナーなどにも参加していました。
息子をリトミックに通わせるようになり、リトミックを勉強したくなり、リトミックの講習会に行ったりもしました。
まさかのコンクール出場
この頃教えていた高校生の生徒が、ポピュラーのピアノコンクールに出てみたいと。
彼女は保育園の頃から通っていて、小学生のころは、毎年コンクールに出ていた頑張り屋さんです。
直前になって、やっぱり毎週テストで欠場に。
ここでまさかの提案が。
大人の部門で先生出て!と言われて、予選は録音で大丈夫だからと、私が参加することになりました。
予選を通過して、関東大会出場の通知が来ました。
関東大会はステージだし、暗譜しないといけないからキャンセルしようかな?と生徒に言ったら、何言ってるんですか!と一喝されて、どんな会場かを見てくるだけでもよいかなと思い直して出場してきました。
後に娘がその会場で受けたピティナの東日本大会で全国大会の出場を決めることになるのですが、その時は夢にも思っていませんでした。
関東大会当日会場に行くと、大人の部門はどう見ても音大卒業して音楽教室に就職したばかりの若い先生ばかりでした。
私は当時4歳の長男をおぶって会場入りして、かなり場違いな感じがしました。
選曲もジャズの難曲ぞろいで、ディズニーの曲を選択していた私は問題外だなあと思いました。
ところが表彰式で名前を呼ばれてびっくりしました。
敢闘賞を頂きました。
いろいろ勉強になった出来事でした。
コンクールに出る時の生徒の気持ちや、発表を待つ時のドキドキ感を味わうことが出来て良かったです。
この後、自分の子供たちがコンクール出場した時に、母親のドキドキはこんなものではないという事を知りました。
世の中のお母さんたちは、本当に大変だと思います。
心臓が口から出そうだというたとえは、決して大袈裟な例えではないと心から思いました。
毎年、コンクールの数だけ、そして出場する子供の数だけ、お母さんのドキドキがあるんだなと思うと頭が下がります。
学校やめたい
ピアノを教えていると、子供たちの心の変化を感じることがあります。
とても真面目で優秀な高校生の女の子で、いつも色々な話をしてくれたかわいい子がいました。
レッスン日でない日に教室にやってきて、先生がレッスン終わって帰るまでここに居ても良いですか?と言いました。
高校生が帰るには早すぎる時間でした。
レッスン室には、グランドピアノ以外に、ヘッドホンで練習できる電子ピアノがあったので、それなら弾いてて良いよと言ったら、3時ごろから、8時過ぎまでずっと電子ピアノを弾いていました。
私はレッスンがあったので時々横目で様子を見ていましたが、ただ事ではないなと思いました。
その日は何も聞きませんでしたが、次の日レッスンに来た時に、何かあったの?と聞いたら学校辞めたいと泣き出しました。
レッスンに来るたびに、いろいろ話をしました。
親にも言えないようで、ピアノのレッスンに来た時に話をする事で気持を保っているようでした。
何度も話をする中で前向きな気持ちになれるようになり、無事に卒業して、国立大学に入学できました。
いじめ
小学5年生の心優しい美人さん。
1年前くらいからピアノの音に気持が入っていないなと感じていました。
たまたまレッスン時間の変更の希望でお母さんから電話をいただいたときに、何か心配ごとでもありましたか?とお聞きしたら、実は学校でいじめられています。
と言って話をしてくれました。
学校でお友達がいなくても、ピアノ教室のお友達がいるよね。
一人じゃないよ、ピアノ教室のお友達はみんな味方だよ!とお話ししたら、電話の向こうで、お母様が号泣してしまい、私ももらい泣きしてしまいました。
そんな彼女も中学校を隣町に行くことにして、吹奏楽部に入り楽しそうに中学校生活を送っていました。
ピアノやってて良かった。
おかげで音楽を通して素敵な友達が出来ました。
と、受験で教室を辞める時に言ってくれました。
いじめが無くなるとよいのですが、ピアノが折れそうな心の支えになることができて本当に良かったです。
子育て、長女
長男が小1の時、長女が生まれました。
息子が小学生になって、実家に行くより自宅でのレッスンが多くなったこともあり、自分のレッスンに通う余裕はなくなりました。
息子が小3の時にスポーツ少年団のサッカー部に入団したので、小学校卒業まで土日は早朝からお弁当持ちで野外で過ごす生活となり、今までの生活とまるで変わってしまいました。
まさか自分が体育会系の生活をすることになるとは、夢にも思っていませんでした。
おおよそ芸術的でないサッカー漬けの生活をやりながらも、息子はピアノのコンクールで入賞するくらいの練習はしていました。
地区トレセンのキーパーでしたので、突き指したままコンクールに出たこともありました。
両立してよくがんばったなと思います。
小学4年生の時に、県の学生音楽コンクールで5位になり表彰式でトロフィーをもらって戻ってきた息子が、まだピアノをはじめていないピョンピョン跳ねてお兄ちゃんすごい!と言って喜んでいる4歳の妹に、大きくなったらお兄ちゃんよりもっと大きなトロフィーをもらって来るんだよ!と声を掛けていました。
うん分かった。と答えた妹はその4年後に約束を果たしました。
7歳年の離れた兄妹の微笑ましいエピソードです。
親子でバレエ
娘は幼稚園に行くようになり、バレエ教室に通いはじめました。
音楽に合わせて飛んだり跳ねたりするのが好きな活発な女の子です。
娘がバレエを習い始めたのをきっかけに、私も子供の頃から夢だったバレエを習い始めました。
親子で同じ習い事をすると、共通の話題が増えて会話もはずんで楽しいです。
少しやせることが出来てバレエの基礎とピアノの共通点なども知ることができて、有意義な時間を過ごすことが出来ました。
いくつになってもやりたいことにチャレンジしていくことは大切だなと思います。
生まれた時からピアノ
娘にとってピアノはつかまり立ちをしている頃から、触ると音が出るものとしていつも身近にありましたが、特に強制してやらせることはしませんでした。
弾きたいと言った時に膝の上に乗せて私が弾くのを見て真似しているくらいのことしかしていませんでした。
幼稚園に通うようになって年中になったある日、園から帰って来るなりメリーさんの羊のメロディーをドーレミファ ソソソーと大きな声で歌い出したのを聞いて、ビックリして、あわてて近所のピアノ教室に入れました。
特に練習するわけでもなく、真面目にレッスンを受けるわけでもなく、遊びに行ってるだけの申し訳ないような感じでした。
それなのに、お兄ちゃんがコンクールに出るから自分も出ると言い出して、たいした練習もせずにピティナの幼稚園の部門に出て、予選で1位になり、本選でも優秀賞をもらってしまいました。
楽譜がよめるわけでもなく、機嫌のよい時に膝に乗せてママの手の位置を真似して弾いただけだったのですが。
まさか入賞するとは思ってもみなかったので喜びというより驚きでした。
ただ、他の子と1つだけ違っていると感じたことがあります。
それは、彼女がとっても楽しそうに演奏していたことです。
コンクールなのに遊んでいるかのように楽しそうでした。
この天真爛漫さを失わせてはいけないなと思いました。
ところが後に私は大きな過ちを・・・
世界大会へ
中学生になった長男はサッカーをやめて科学部に入り、ロボコンの全国大会に出場しただけでもビックリなのに、優勝して日本代表で世界大会に出場しました。
世界大会に行くと思っていなかったのでパスポートもなく全ての手続きを一週間でしなければならなくて大変でした。
縁の下の力持ちが良いと言って目立とうとするタイプではなかったのですが、生徒会長になって活躍もしました。
高校は県内トップの宇都宮高校に行きたいと言って見事合格。
最難関の高校を受験した理由が、その高校にしかない管弦楽部に入ってチェロが弾きたいというものでした。
ピアノ以外の楽器はやったことがなかったのですが、ピアノは音楽の基礎と言われるくらいの楽器なので、高校入学してから始めたチェロもあっという間に弾けるようになり、3年生の時はチェロのパートリーダーと管弦楽部の副団長をつとめました。
さらに、国立大学の教育学部を受験することになり、教えて欲しいチェロの先生がいる新潟大学を受験しました。
二次試験がピアノとチェロだったので、彼にとっては苦労なく合格しました。
小さい時に始めたピアノを高校生まで続けて、大学受験の助けになるとは驚きです。
努力は報われるのですね。
そして芸は身を助けるですね。
震災、ワンオペ育児
長男が高校の合格発表の日、東日本大震災がおきました。
お祝いをするどころではなく電気がつかない生活を体験することになりました。
また、ほとんど同時に主人の単身赴任が決まりました。
生活が一変する中、高1の息子と小3の娘を1人で育てていくことになりました。
そんな中でもレッスンは続けることができました。
計画停電の合間を縫って発表会をすることも出来ました。
ありがたいことだと思いました。
手術
震災の半年後に乳がんの手術をすることになってしまい、2ヶ月お休みをもらってレッスンを再開しました。
自分が癌と聞いたときはとてもショックでしたが、単身赴任の主人が不在の中、落ち込んでいる暇もなく、病院は5日で退院して通院治療をしながら日々の生活に追われていました。
自分のプロポーションを見てちょっとがっかり。笑
すぐに手術の事など忘れてしまいました。
時々送迎の父兄の方に体調はいかがですか?と声をかけていただいて、そういえば私、癌の手術したんだった。
と思い出すくらいでした。
癌も早期発見で手術をすれば、何も心配しなくて大丈夫な病気です。
お母様方には忙しくてもお子さんのためにも、是非集団検診を受けてほしいです。
私は術後8年たちますが、元気でピンピンしています。
毒母に
そんな中、娘のピアノが上達して、兄と同じ県の学生音楽コンクールで、小2で4位、小4で2位、小6で1位になりました。
ピティナのコンクールではB級C級D級F級で全国大会に出場して、C級ではベスト賞になりました。
ショパンコンクールでは、低学年部門、中学年部門、高学年部門それぞれでアジア大会に出場して、小4、小6の時は、アジア大会で銅賞をいただく事が出来ました。
娘のおかげで全国トップクラスの演奏をたくさん聴くことができて、とても幸せでしたし、大変勉強になりました。
そのノウハウを自分のレッスンに活かしたいところですが、娘の練習時間を作るために新しい生徒さんの募集をしないようにしました。
ハンガリーの国立大学のピアニストの先生が来日した時に褒めていただいて、とても良いものを持っているから、大切に育ててくださいね。
と言っていただいたのをきっかけに、徐々に私は毒母になってしまいます。
常に子供のためにと思って行動していたつもりだったのですが、知らず知らずのうちに娘の心を傷つけてしまっていたようです。
それに気がつくのは、中学生になって、激しい反抗期がやって来た時です。
娘の反抗期
長男が大学生になり家を出て、主人の単身赴任も終わり生活は元に戻ったのですが、中3の反抗期のピークの時は、私は今まで何のために頑張ってきたんだろうと虚しくなりました。
反抗期の子供の勉強会に行ったりする中で自分を変えようと思うようになり、それはまた大変なことだったのですが一から子育てをやり直そうと思って頑張りました。
お互いにとても辛い時期だったと思いますが、子供が反抗してくれたおかげで、たくさんの学びがありました。
今は感謝です。
反抗期を抜けた娘は、反抗期のピリピリした感じは無くなり、思いやりのある優しい娘になりました。
そして、いつもイライラしていた母親だった私も、心配ではなく信じて待つ事が出来るようになったことで、子供の気持ちを理解して尊重できるようになったと思います。
同じような悩みを抱えているお母様がいらしたら、私の体験を参考にしてほしいと思います。開けない夜はありません。
一寸先は闇ではありません、一寸先は光です。
私の思い
現在長男は結婚して独立、長女は桐朋女子高等学校音楽科に進学してピアノの勉強をしています。
私は子育てもほぼ終わり少し手が空いたので、子育ての経験を生かしてピアノの勉強がしたいと思っているお子さんの力になれたらよいなと思っています。
そして、ピアノに憧れている大人の方に、勇気を持ってチャレンジするお手伝いをさせていただきたいなと思っています。
メディア
保科陽子先生の「自己肯定感アップセミナー」受講の感想が千葉テレビ「シゴトのコンパス」で放送されました。